のんびり日記

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江戸絵画の文雅 ─魅惑の18世紀 at 出光美術館

作品の解説や紹介が目的ではありません。正しい/正しくないなどは置いておいて、自分の感じたこと、考えたこと、想像したことを自由に書きたいと思います

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今日は先日見に行った出光美術館で開催されていた展覧会について感じたことを残しておきたいと思ったのでそれについて書きます。

展覧会のタイトル通り、江戸時代に活躍した作家達の作品が展示されていました。結構満足できた展覧会でした。

まず白隠白隠は禅画家として有名な画家の一人。白隠の作品を見て面白いと思ったのは、作品から少し彼の性格が見て取れるところにある。というのも禅画では絵と文字がセットとなっている場合がほとんどで、今日の展示作品もそうだった。書に関しては、はじめと終わりに印が押してあってその間に4〜5行ほど縦書きで描かれている。けどよく見ると最後の2、3行は白隠が書きながら紙に入りきらないと思ったのか、露骨に右斜め下に字が傾いている。僕たちでも日頃文字を書いていたら似たような経験はあると思うが、それを絵の中の書でも同じように無理やり書き入れて尚且つそれで良しとしてそのまま作品として仕上げている彼の心の持ちように惹かれた。普通ならもう一度書き直そうとしてもおかしくないけど、彼は違う。「ええい構わん」みたいな感じで描いている白隠の姿を想像すればそれだけで可笑しく、愛らしくさえ思えてくる。時代を超えて今や美術館というある意味、芸術と日常が切り離された場所で展示されることになるとは彼は思いもしなかっただろう。

今回の展覧会では多くの屏風絵が展示されていた。あまり本物の屏風絵を見たことなかったので新鮮だった。まず普通に「でかっ」というのが素直な感想。疑問に思ったのは、画家は描く前からある程度折り目がついたときにどうなるかも考えているのかということ。もちろん描くときは平面にして描いているだろうけど、折りたたまれたことも考えながら構図も考えているのだとしたら凄い。また屏風の発明は、絵が立体的に見えるということだけでなく、絵を正面から以外でも楽しめるということだろう。つまり視点が固定されておらず、実際に斜めから絵をみてみたらそれはそれで斜めから見える部分だけで絵が成り立っていた。この事実が分かったとき結構興奮した。美術館でガラス越しに展示されていたらみんなどうしても正面からばかり絵を見がちだけど、斜めから見てみるとまた違った景色が表れて何倍も絵が楽しめる。

全体を通して感じたのはやはり、日本の芸術というのは極めて日常生活と共に成立していたということを強く感じた。屏風にしても掛け軸にしても、皿や茶碗などの工芸品にしても日常とは切っても切り離せないものだったはずだ。そのことを分かっていてもやはりそれが美術館という美術を日常から切り出したものの象徴のような場で展示されている訳だから少し違和感を覚える。江戸時代の絵画とかをみると、その絵の中に当時の人々の暮らしの中に違和感なく屏風やら掛け軸が存在しているのが分かる。日常から切り離して一面的に美を捉えて終わってしまうことには悲しみを覚える。どこか現代のストリートアートで起きている論争と似通っている事がある。バンクシーの作品が切り離されてオークションで高値で売れてしまっていることとか。反論として考えられるのは、そのままにしていたら作品が壊されてしまうというのがある。もちろん芸術作品を保存して未来の人々がそれらの作品を見て触れることができるようにすることは本当に大切なこと。今回こうやって作品群を見る事ができたことには本当に感謝でしかない。
だけど、美というものは断片的に切り出して保存できるほど単純なものではないはずだとも思う。花のようにあるとき見たら花が咲いていて色鮮やかで美しいけれど、少し時間が経ってから見てみるとその時には萎れて異臭を放ち死んでいるかもしれない。美と醜は対立するものでもなければ、切り離せるものでもなく、本来は複雑に混ざり合っているものだと思う。よくわからなくなってきたのでここら辺にします