のんびり日記

のんびり生きましょう

姫路市立美術館で開催中のチームラボの作品が愛で溢れていた件

今回もまたまたチームラボの展覧会に行ってきたので、そこで感じたことについて書きたいと思います。

概要

地元が神戸でゴールデンウィーク中に帰っていたので、その機会を利用して姫路市立美術館で現在開催中の「チームラボ 世界は暗闇からはじまるが、それでもやさしくうつくしい」に行ってきた。

まずかなりざっくりと作品を紹介する。

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展覧会の名前からヤバさが伝わってくる

作品は全部で4つ展示されていた。

一つ目の作品、若冲の作品をモチーフに拡張しているとわかる。

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世界は、統合されつつ、分割もされ、繰り返しつつ、いつも違う

次の作品は展覧会のタイトルにもなっているから、今回の作品群の中でも特に意味のある作品であると想像する。

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世界は暗闇から始まるが、それでもやさしくうつくしい

次の作品はteamlab borderlessに行った際に好きになったBlack wavesである。

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Black Waves: 埋もれ失いそして生まれる

そして最後に、奥に進んでいくと

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永遠の今の中で連続する生と死 Ⅱ

暗闇の中で異彩を放っているのがこの写真から少しでも感じていただけるだろうか。

感想

一言で言うと、

ヤバイ、愛、涙、美

そんなところだろうか。まあ言いたいことは大体わかってくれたと思うけど、おせっかいで色々と下に書いてみる。

遠い遠い人類が地球に存在するよりもずっと昔にタイムスリップし、そこで生命の根源に出会える展覧会である。

まず作品の流れは上の写真で載せた通り、

  1. 『世界は、統合されつつ、分割もされ、繰り返しつつ、いつも違う』
  2. 『世界は暗闇から生まれるが、それでもやさしくうつくしい』

  3. 『Black Waves: 埋もれ失いそして生まれる』
  4. 『永遠の今の中で連続する生と死、コントロールできないけれど、共に生きる』

となっている。

最初の作品『世界は、統合されつつ、分割もされ、繰り返しつつ、いつも違う』では、鑑賞者が一定の距離以内に近づくと、その人の影がスクリーンに投影される。チームラボが長く手がける作品の一つである。

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影がスクリーンに映る

自分の影が、スクリーンの世界に住む動物に何かしらの影響を与えるのかは分からない。一つ感じたこととして、ピクセルによって分割された自分を見ることで、自分という存在を抽象化して捉えることができる。自分と同じように抽象化されて描かれる他者を見ると、彼らと本質的には何も変わらないことに気づかされる。また人が増えてくると複数人の影が重なり合い、どこまでが自分の影でどこまでが他者の影なのか分からない、つまり自分と他者の境界線が曖昧な状態になる。

 

二番目の『世界は暗闇から生まれるが、それでもやさしくうつくしい』は、鑑賞者の作品への積極的な関わりが前提に作られている。人間は上から降っていくるものにはどうしても触れたくなってしまうのか、手当たり次第に降りてくる漢字を触っている自分がそこにはいた。鑑賞者の作品への参加で作品は常に変化し続け、二度と同じものは描かれない。降ってくる漢字は「海」「地」「水」「雷」「土」「山」「蝶」「蛍」「鳥」「識」などで見ればわかる通り、自然現象や他の生物を指す漢字が多いのだが「識」という漢字が目に止まった。
この「識」とはどういう意味だろうか。おそらく仏教用語における「識」を指しているのだと思われる。Wikipediaによると

識とは、意識、生命力、心、洞察力との意味の仏教用語である。認識対象を区別して知覚する精神作用を言う。

 とのことである。
では、「識」に触れるとどうなるだろうか(本当は写真か動画を載せたいけど、触るのに夢中で写真を撮るの忘れてました。すみません。)実際に触れると、暗闇が広がっていく。水に墨汁を一滴垂らすとそれが徐々に透明さを飲み込んでいく様に似ている。仏教思想に詳しく知らないので込み入った話はできないけど、自然や生物を象徴する漢字が多くを占める中、この漢字だけ人間の活動を象徴する漢字であるとわかる。自然や生物を知ろうとする人間の働きかけを意味しているのかもしれない。
人間の積極的な参加で本作品の世界が成り立つように、実際の世界も一人一人の人間の積極的な参加なくしては成立し得ないのではないか。タイトルにある「世界は暗闇から始まるが」の暗闇は識を指しているのかもしれない。つまり一人一人の積極的な世界への関わりから始まる。一人一人の行動は他者に影響を与え、逆も然り、他者の行動は自分に影響を与える。自分が触れて生まれた蝶や花をバックにして写真を撮るひとを見ると自然と嬉しい気持ちになる。常に変化する世界に身を任せつつも、自分も参加する。

三番目は『Black Waves: 埋もれ失いそして生まれる』。鑑賞者のインタラクションを前提に作られていた1つ目、2つ目の作品とは打って変わり、力強く生気を帯びた波に、鑑賞者は微塵も影響を与えることができない。写真をとる時などに作品と一体化を図ることはできても、決して波に影響を及ぼすことはできない。空間に張り巡らされた鏡が作品を拡張し、波が無限に広がるかのような錯覚を僕に与えた。

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無限の彼方へ続いている

少し話が脱線するが波で一番最初に想起される出来事はやはり東日本大震災である。この春に石巻に行く機会があり、その時に仙沼向洋高校の跡地としてできた東日本大震災遺構・伝承館に行った。

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当時の状態が残されている

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2階か3階か忘れたが、波が如何に高かったのかを物語る

自然の偉大さ、強大さを目の前にして言葉を失ったのを覚えている。自分の生命の危機を感じるほどの強大なものや出来事を目の前にした時に感じる自分という存在の無力さ。普段何気なく、そして当たり前のように実現している「生きる」という状態がいかに、脆く、危うく、そして奇跡的であるのかをその時に感じた。

普段生きている中では人はそのことをどうしても忘れてしまう。というよりも忘れないとやっていけないのではないだろうか。でも完全に忘れてしまってはいけない。普段意識しているわけではないけれど、確かに心の中にある。そう。美意識として心の中に存在していることが大切なのではないだろうか。恐怖、虚しさ、悲しさの先に一人一人が見出す美意識が文化、芸術を生み出すのではないだろうかと、ふと思った。

Black Wavesの前では自然(というよりも何か自分という存在を遥かに超越した時間軸で動いている概念的なもの)の圧倒的なプレゼンスに上記の石巻での経験と似た自分の無力さを感じた。本作品のタイトルにもある「埋もれ失いそして生まれる」で言えば僕は間違いなく埋もれ失っていた。しかしここで終わりでない。僕はこのBlack Wavesが次の作品に繋がっていると確信した。そう、次の作品で僕は「生まれる」のである。

広大な波の中に埋もれ彷徨った先に出会ったのが最後の作品『永遠の今の中で連続する生と死、コントロールできないけれど、共に生きる』。もう一度写真を載せる。

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もう一度言うが暗闇の中で異様な輝きを放っている

波に埋もれ失いながらも、同時に波に導かれるようにして最後の作品にたどり着く。そこで目にするのは鑑賞者のインタラクションで振る舞いを変える生と死を永遠に繰り返す花々である。生死を凌駕し無限に広がる波の中にポツリと存在し、誰かに命ぜられてそうしている訳でもなく、ただひたすらに生と死を繰り返す花々は「綺麗」「美しい」という言葉が陳腐に思えてしまうほど、虚しく儚くも愛おしい存在として僕の目には映った。

ここで注目したいのは死を迎えた花は物理法則を無視して散っていくということである。

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まるで死人の魂が天に向かって上がっていくようである

ここに表現されている生と死は決して物質的、肉体的な意味でのものではない。また時間や重力といった物理法則にも従っていない。咲いては散るを永遠に繰り返す花々は、逆説的に生と死など本当は存在しないのだと僕に説いてきているように感じた。

最後にもう一つ注目したい点がある。今回の姫路美術館の館内のつくりは入り口と出口が同じなのである。何が言いたいかというと、鑑賞者はこの作品をみて終わりなのではなく、来た時とは逆順で作品に触れることになるのだ。
不思議なことに行きと帰りとで同じ作品を見ているにも関わらず、作品に関わる自分の心の持ちようが変化していることに気が付いた。確かに自分という存在を肉体的、物質的な側面からのみ捉えると短命で脆いが、生命の連続性の一部分として今ここに生きることが実現しているのだと思うと、自分の生命を有限な時間軸で考えることが愚かであるとわかる。これからも連続していくために今ここに偶然存在する自分ができることは何があるだろうか、先代から渡されたリレーのタスキを次の世代にしっかりと渡すために自分は何ができるか、そんなことを考えていた。

チームラボの作品は体験者に圧倒的な没入感を与え、作品と自分の境界線が曖昧になるように設計されている。しかし同時に体験者は自分という存在と向き合うことを迫られるようにも設計されているように感じた。最初の『世界は、統合されつつ、分割もされ、繰り返しつつ、いつも違う』では、抽象化された自分に出会うし、そして会場に張り巡らされた鏡は作品を空間を拡張するためのみの装置でなく、そこにその瞬間に確かに存在する自分と出会うための装置でもあるような気がする。長い長い人類の、生命の連続する営みの中に確かに今ここに存在する自分とは、どんな存在なのかということを考えさせられる。与えられた意味なんて存在しない。しかし、確かに感じられることがある。今この瞬間にここにいることが奇跡なのだと。他の誰かに身を委ねるのではなく、自分自身で自分という存在と向き合い、その先に自分で意味づけをしていくしかないのではないだろうか。

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最後にチームラボのメッセージをのせる

「美」について説教臭く説明的に押し付けてくるのではなく、デジタルテクノロジー乃至はデジタルアートによって人間誰しもが本来持っている美を感じる心や情を引き出し、そして拡張してくれている。そんなチームラボの愛と優しさに満ち溢れた展覧会となっている。6月16日までなので、皆様にも是非足を運んで体験してほしい。

いじょう。