のんびり日記

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与謝蕪村「新緑杜鵑図」

作品の解説や紹介が目的ではありません。正しい/正しくないなどは置いておいて、自分の感じたこと、考えたこと、想像したことを自由に書きたいと思います 

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参照:http://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/199360/0/1

今回は与謝蕪村の新緑杜鵑図について見ていきます。

素直な感想として、見ていて心が落ち着く絵である。胃に優しい絵。
画面下左側、画面上部大半は霧に覆われていて、余白となっている。その霧の隙間から山々が顔を覗かせている。余白の先には遠くまで山々が連なっているのだろうと想像することができる。

鳥が1羽空を飛んでいる。そこにもし鳥が飛んでいなかったらこの絵は別物となっていただろうと勝手に思う。鳥のさえずりは霧に覆われた自然の静寂さを瞬間的に切り裂く。その一瞬の出来事の直後には再び静寂が訪れる。しかし再訪した静寂はただの無音ではない。その静寂は意味を持った非常に美しいものとなってやってくる。鳥のさえずりは一定のリズムで発生するものではない。時には単独で、時には複数が重なり合って、バラエティに富んだ静寂を切り裂く瞬間的な音が不定期に生み出される。不定期に静寂が切り裂かれるからこそ、静寂そのものも不定期に訪れる瞬間的な音として同様に扱える。鳥のさえずりがあたかも、その直後に訪れる瞬間的な静寂を1つの美しい音とするために存在しているかのように感じてしまう(もちろん鳥のさえずりは、それ自体も非常に美しいもので邪魔なものではない)。いまある静寂は次の瞬間には消え去っているかもしれない。そんな緊張感にある静寂は、儚くも愛おしくそして美しく思えてくる。静寂の美の発見は人類にとって意味のある発見である。ししおどしも、水を流す時に竹が生み出す音に美を見出したのではなく、意識的に切り裂いた後の静寂の方に美を見出したのだろう。
静寂は視覚的にはどう表現され得るか。それは余白ではないだろうか。この絵においてもそうである。描かれている部分は余白を意味のある1つの部分とするために存在している。部分としての連続性は途切れるが全体として調和している。

都市に住んでいると、瞬間的な静寂に立ち会うことはそう滅多にない。常時ノイズが都市を覆い尽くしている。次の瞬間には切り裂かれてしまうやもしれないという緊張感を持った静寂は都市では感じにくい。都市が作り出す音はそれはそれで非常に面白いのではあるが、静寂の美も忘れずにいたい。