のんびり日記

のんびり生きましょう

姫路市立美術館で開催中のチームラボの作品が愛で溢れていた件

今回もまたまたチームラボの展覧会に行ってきたので、そこで感じたことについて書きたいと思います。

概要

地元が神戸でゴールデンウィーク中に帰っていたので、その機会を利用して姫路市立美術館で現在開催中の「チームラボ 世界は暗闇からはじまるが、それでもやさしくうつくしい」に行ってきた。

まずかなりざっくりと作品を紹介する。

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展覧会の名前からヤバさが伝わってくる

作品は全部で4つ展示されていた。

一つ目の作品、若冲の作品をモチーフに拡張しているとわかる。

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世界は、統合されつつ、分割もされ、繰り返しつつ、いつも違う

次の作品は展覧会のタイトルにもなっているから、今回の作品群の中でも特に意味のある作品であると想像する。

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世界は暗闇から始まるが、それでもやさしくうつくしい

次の作品はteamlab borderlessに行った際に好きになったBlack wavesである。

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Black Waves: 埋もれ失いそして生まれる

そして最後に、奥に進んでいくと

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永遠の今の中で連続する生と死 Ⅱ

暗闇の中で異彩を放っているのがこの写真から少しでも感じていただけるだろうか。

感想

一言で言うと、

ヤバイ、愛、涙、美

そんなところだろうか。まあ言いたいことは大体わかってくれたと思うけど、おせっかいで色々と下に書いてみる。

遠い遠い人類が地球に存在するよりもずっと昔にタイムスリップし、そこで生命の根源に出会える展覧会である。

まず作品の流れは上の写真で載せた通り、

  1. 『世界は、統合されつつ、分割もされ、繰り返しつつ、いつも違う』
  2. 『世界は暗闇から生まれるが、それでもやさしくうつくしい』

  3. 『Black Waves: 埋もれ失いそして生まれる』
  4. 『永遠の今の中で連続する生と死、コントロールできないけれど、共に生きる』

となっている。

最初の作品『世界は、統合されつつ、分割もされ、繰り返しつつ、いつも違う』では、鑑賞者が一定の距離以内に近づくと、その人の影がスクリーンに投影される。チームラボが長く手がける作品の一つである。

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影がスクリーンに映る

自分の影が、スクリーンの世界に住む動物に何かしらの影響を与えるのかは分からない。一つ感じたこととして、ピクセルによって分割された自分を見ることで、自分という存在を抽象化して捉えることができる。自分と同じように抽象化されて描かれる他者を見ると、彼らと本質的には何も変わらないことに気づかされる。また人が増えてくると複数人の影が重なり合い、どこまでが自分の影でどこまでが他者の影なのか分からない、つまり自分と他者の境界線が曖昧な状態になる。

 

二番目の『世界は暗闇から生まれるが、それでもやさしくうつくしい』は、鑑賞者の作品への積極的な関わりが前提に作られている。人間は上から降っていくるものにはどうしても触れたくなってしまうのか、手当たり次第に降りてくる漢字を触っている自分がそこにはいた。鑑賞者の作品への参加で作品は常に変化し続け、二度と同じものは描かれない。降ってくる漢字は「海」「地」「水」「雷」「土」「山」「蝶」「蛍」「鳥」「識」などで見ればわかる通り、自然現象や他の生物を指す漢字が多いのだが「識」という漢字が目に止まった。
この「識」とはどういう意味だろうか。おそらく仏教用語における「識」を指しているのだと思われる。Wikipediaによると

識とは、意識、生命力、心、洞察力との意味の仏教用語である。認識対象を区別して知覚する精神作用を言う。

 とのことである。
では、「識」に触れるとどうなるだろうか(本当は写真か動画を載せたいけど、触るのに夢中で写真を撮るの忘れてました。すみません。)実際に触れると、暗闇が広がっていく。水に墨汁を一滴垂らすとそれが徐々に透明さを飲み込んでいく様に似ている。仏教思想に詳しく知らないので込み入った話はできないけど、自然や生物を象徴する漢字が多くを占める中、この漢字だけ人間の活動を象徴する漢字であるとわかる。自然や生物を知ろうとする人間の働きかけを意味しているのかもしれない。
人間の積極的な参加で本作品の世界が成り立つように、実際の世界も一人一人の人間の積極的な参加なくしては成立し得ないのではないか。タイトルにある「世界は暗闇から始まるが」の暗闇は識を指しているのかもしれない。つまり一人一人の積極的な世界への関わりから始まる。一人一人の行動は他者に影響を与え、逆も然り、他者の行動は自分に影響を与える。自分が触れて生まれた蝶や花をバックにして写真を撮るひとを見ると自然と嬉しい気持ちになる。常に変化する世界に身を任せつつも、自分も参加する。

三番目は『Black Waves: 埋もれ失いそして生まれる』。鑑賞者のインタラクションを前提に作られていた1つ目、2つ目の作品とは打って変わり、力強く生気を帯びた波に、鑑賞者は微塵も影響を与えることができない。写真をとる時などに作品と一体化を図ることはできても、決して波に影響を及ぼすことはできない。空間に張り巡らされた鏡が作品を拡張し、波が無限に広がるかのような錯覚を僕に与えた。

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無限の彼方へ続いている

少し話が脱線するが波で一番最初に想起される出来事はやはり東日本大震災である。この春に石巻に行く機会があり、その時に仙沼向洋高校の跡地としてできた東日本大震災遺構・伝承館に行った。

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当時の状態が残されている

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2階か3階か忘れたが、波が如何に高かったのかを物語る

自然の偉大さ、強大さを目の前にして言葉を失ったのを覚えている。自分の生命の危機を感じるほどの強大なものや出来事を目の前にした時に感じる自分という存在の無力さ。普段何気なく、そして当たり前のように実現している「生きる」という状態がいかに、脆く、危うく、そして奇跡的であるのかをその時に感じた。

普段生きている中では人はそのことをどうしても忘れてしまう。というよりも忘れないとやっていけないのではないだろうか。でも完全に忘れてしまってはいけない。普段意識しているわけではないけれど、確かに心の中にある。そう。美意識として心の中に存在していることが大切なのではないだろうか。恐怖、虚しさ、悲しさの先に一人一人が見出す美意識が文化、芸術を生み出すのではないだろうかと、ふと思った。

Black Wavesの前では自然(というよりも何か自分という存在を遥かに超越した時間軸で動いている概念的なもの)の圧倒的なプレゼンスに上記の石巻での経験と似た自分の無力さを感じた。本作品のタイトルにもある「埋もれ失いそして生まれる」で言えば僕は間違いなく埋もれ失っていた。しかしここで終わりでない。僕はこのBlack Wavesが次の作品に繋がっていると確信した。そう、次の作品で僕は「生まれる」のである。

広大な波の中に埋もれ彷徨った先に出会ったのが最後の作品『永遠の今の中で連続する生と死、コントロールできないけれど、共に生きる』。もう一度写真を載せる。

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もう一度言うが暗闇の中で異様な輝きを放っている

波に埋もれ失いながらも、同時に波に導かれるようにして最後の作品にたどり着く。そこで目にするのは鑑賞者のインタラクションで振る舞いを変える生と死を永遠に繰り返す花々である。生死を凌駕し無限に広がる波の中にポツリと存在し、誰かに命ぜられてそうしている訳でもなく、ただひたすらに生と死を繰り返す花々は「綺麗」「美しい」という言葉が陳腐に思えてしまうほど、虚しく儚くも愛おしい存在として僕の目には映った。

ここで注目したいのは死を迎えた花は物理法則を無視して散っていくということである。

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まるで死人の魂が天に向かって上がっていくようである

ここに表現されている生と死は決して物質的、肉体的な意味でのものではない。また時間や重力といった物理法則にも従っていない。咲いては散るを永遠に繰り返す花々は、逆説的に生と死など本当は存在しないのだと僕に説いてきているように感じた。

最後にもう一つ注目したい点がある。今回の姫路美術館の館内のつくりは入り口と出口が同じなのである。何が言いたいかというと、鑑賞者はこの作品をみて終わりなのではなく、来た時とは逆順で作品に触れることになるのだ。
不思議なことに行きと帰りとで同じ作品を見ているにも関わらず、作品に関わる自分の心の持ちようが変化していることに気が付いた。確かに自分という存在を肉体的、物質的な側面からのみ捉えると短命で脆いが、生命の連続性の一部分として今ここに生きることが実現しているのだと思うと、自分の生命を有限な時間軸で考えることが愚かであるとわかる。これからも連続していくために今ここに偶然存在する自分ができることは何があるだろうか、先代から渡されたリレーのタスキを次の世代にしっかりと渡すために自分は何ができるか、そんなことを考えていた。

チームラボの作品は体験者に圧倒的な没入感を与え、作品と自分の境界線が曖昧になるように設計されている。しかし同時に体験者は自分という存在と向き合うことを迫られるようにも設計されているように感じた。最初の『世界は、統合されつつ、分割もされ、繰り返しつつ、いつも違う』では、抽象化された自分に出会うし、そして会場に張り巡らされた鏡は作品を空間を拡張するためのみの装置でなく、そこにその瞬間に確かに存在する自分と出会うための装置でもあるような気がする。長い長い人類の、生命の連続する営みの中に確かに今ここに存在する自分とは、どんな存在なのかということを考えさせられる。与えられた意味なんて存在しない。しかし、確かに感じられることがある。今この瞬間にここにいることが奇跡なのだと。他の誰かに身を委ねるのではなく、自分自身で自分という存在と向き合い、その先に自分で意味づけをしていくしかないのではないだろうか。

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最後にチームラボのメッセージをのせる

「美」について説教臭く説明的に押し付けてくるのではなく、デジタルテクノロジー乃至はデジタルアートによって人間誰しもが本来持っている美を感じる心や情を引き出し、そして拡張してくれている。そんなチームラボの愛と優しさに満ち溢れた展覧会となっている。6月16日までなので、皆様にも是非足を運んで体験してほしい。

いじょう。

teamlab borderless

 こんにちは。
タイトル通りteamlab borderlessに行ってきました。2回目ですが。

体験を言語化することは自分が何を感じたか再度考える良いきっかけになる。しかし注意も必要である。言語化しようと体験することはいけない。頭で体験を理解しようとすれば、複雑なものを複雑なまま、ただただ受け入れるということを忘れてしまうからだ。昨日はそのことを念頭に置いていたので、teamlab borderlessに居る時は、言語化することなど考えずにただただその世界をそのまま受け入れ、さまよい、そして発見することだけを考えていた。だからここでは1日経った今心に残る言語化されていないそのふわふわしたものについてほんのり考える程度にしたい。

teamlab borderlessは知っての通り巨大だ。とにかく迷う。自分がどこにいるかもわからない。その分何時間遊んでも飽きることは決してない。
2、3時間経過した頃らへんからだろうか、

「ここに1週間閉じ込められたらどうなるだろうか?」

という訳の分からないことを考えている自分がいた。
僕は三半規管がすこぶる弱いし、眼も刺激に強くない。
だからカラスの作品や光の彫刻の作品は大好きだけど、その空間に何時間もいることはできないだろう。かと言って、トランポリンを何時間も跳び続けることは身体的限界もあるし、塗り絵にも限界がある。

そこで出会ったのが「Black waves」という空間全体が波に覆われた作品である。

www.youtube.com

teamlabの作品群はyoutubeにあがっているので見て欲しい。

この作品はインスタ映えスポットとしても人気な場所だが、それだけで終わらせるには非常に惜しい。空間の中央にはクッションが置かれていて、休憩している人たちが大勢いることに気がついた。自分も周りに合わせて座っていたら、とてもリラックスしている自分がそこにいた。
先ほどの問いに対する答えるなら閉じ込められる1週間のうち6日と20時間くらいはここにいるだろうと直感した。おそらくそれは僕だけが感じたことではなく、多くの人も同じ気持ちになったのだろうと休んでいる人の姿から推測できた。

その空間にいた時はただただ無でいれたので何も考える気持ちが起こらなかったのだが、1日経った今ここで改めてその理由について考えてみたいと思う。

確かにあの波に囲まれた空間に入った瞬間から何か他の空間とは違う気がしたのを覚えている。ただただ流れる波。それはどこから来て、どこへ向かっているのだろうか。いや、おそらくどこから来たのでもなく、そしてどこかへと向かっているわけでもない。ただただそこに存在する。何一つとして意味を持つことなくただただ運動を繰り返す。その世界に自らの身体を没入させることで、自分の存在に対する意味を問われることもなく、ただただそこに在る自分の存在が肯定されている気がしていたのかもしれない。

またあの空間に流れる時間は確実に我々人間が生きる上での時間感覚を超越していたように思える。それはどういうことか。人間は生まれてから死ぬという面で見れば有限な時間を生きている。その時間は過程が直線的であれ非直線的であれ始点から終点へと向かっていることに変わりない。それとは対照的に「Black waves」の世界に流れていた時間は始まりもなければ終わりもないし、もはや時間という概念が存在しないのではないかとさえ思ってしまう。確かにあの空間にいた時、視界に入るもの全てが波であったがために、地球上にまだ生命が存在しなかった時代にタイムスリップしたかのような気持ちになったのを覚えている。時間という概念が存在しないというよりかは、スケールがあまりにも壮大で、そして人間一人の生きる時間とはあまりにもかけ離れているが故に、あたかも時が止まっているかのような錯覚に陥っていたのかもしれない。だからこそ、僕は何時間でも居続けられると直感したのかもしれない。

修行を経て悟りの境地に達した人達の時間感覚はもしかしたらこのような非常のスケールの大きなもので、そうであるためにしばしば死をも超越した存在として崇められるのかもしれないと思った。そんな悟りの境地に達した人たちのみぞ知る世界をほんの少しでも覗かせてくれる「Black waves」。是非とも他の人にも足を運んで体験してもらいたい。

柿本人麻呂 「淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す」

今日は万葉の詩を1つ見たいと思います。

淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す

万葉の世界でも有名な歌人の一人である柿本人麻呂による詩。
平安時代に生きた人々にとって、「結ぶ」という行為には祈りや思いを込めると言った意味合いがあった。妹が恋い慕う者を指せば、妹が結びし紐は、恋い慕う者が我のためを思って結んでくれた紐ということになる。淡路にいるなら人麻呂は旅に出ているのであると推測できる。だから旅先に出る前に妹が着物の紐を旅先での無事を祈って結んでくれたのだろう。その妹の思いが紐には閉じ込められている。人麻呂はその紐を見返すたびに妹のことを思い出し、恋い慕う者が自分の無事を祈ってくれているのだと思いを馳せることで元気を出していた、そんな風な気がする。今で言うならお守りとかミサンガとかになるのかもしれない。
この詩は最後に吹き返すとある。私は動的、さらに言えば流動的なイメージが風にはある。淡路の浜風が妹が結んだ紐を揺らしているのを見た人麻呂は、風が我を偲ぶ妹の思いを乗せてやってきたのだろうかと感じたのではないだろうか。恋愛に冷めた人にとったら何言ってんだコイツと思うかもしれないが、人麻呂の中ではその紐と共に妹が生きていた。

今となっては「君の名は」の影響もあり、「結び」に特別な意味があることを知っている人も多いだろう。「結び」は結ぶという人間の行為がそこには必ず発生するので人間の意志の表れと捉えられる。神社でおみくじを結んだりするのもその影響ではないだろうか。

持統天皇「春過ぎて 夏来たるらし 白栲の 衣干したり 天の香具山」

今日は万葉の歌について書きたいと思います。

”春過ぎて 夏来たるらし 白栲の 衣干したり 天の香具山”

持統天皇に読まれたとされている歌であり、誰もが一度は聞いたことがあるかもしれない。
この歌で一番好きなのは「春過ぎて 夏来たるらし」の部分。当時の人々の時間意識を垣間見ることができる気がする。
春、夏、秋、冬と季節が移ろい循環するものであることに自覚的であり、その移ろいを虫、動物の鳴き声や、咲く花などの自然の中の変化と人々の生活の変化から感じ取っていたのだろうと推測できる。現代を生きる我々と同じで、道歩く人の服装の変化や、スーパーで売られている食品の変化、もしくは公園に咲く花の変化から季節の移ろいを読み取る感覚は分からなくない。
一本一本の木々に綺麗な緑に色づいた葉が付いて、それが天の香具山を作り出している。その色の対比としての白栲の衣。そして空には真っ青な空が広がっている情景が歌から想像される。目の前に広がるその光景から夏の到来を感じたのだろう。
これから始まっていく夏の季節の日々に心踊らせている読み手の気持ちが伝わってきて、夏の到来を心待ちしている自分自身に気がついた。季節の移ろいに心動かされ、美を感じ、その移ろう時間の中で生きる感覚は忘れてはならないと勝手ながらに思った。

与謝蕪村「新緑杜鵑図」

作品の解説や紹介が目的ではありません。正しい/正しくないなどは置いておいて、自分の感じたこと、考えたこと、想像したことを自由に書きたいと思います 

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参照:http://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/199360/0/1

今回は与謝蕪村の新緑杜鵑図について見ていきます。

素直な感想として、見ていて心が落ち着く絵である。胃に優しい絵。
画面下左側、画面上部大半は霧に覆われていて、余白となっている。その霧の隙間から山々が顔を覗かせている。余白の先には遠くまで山々が連なっているのだろうと想像することができる。

鳥が1羽空を飛んでいる。そこにもし鳥が飛んでいなかったらこの絵は別物となっていただろうと勝手に思う。鳥のさえずりは霧に覆われた自然の静寂さを瞬間的に切り裂く。その一瞬の出来事の直後には再び静寂が訪れる。しかし再訪した静寂はただの無音ではない。その静寂は意味を持った非常に美しいものとなってやってくる。鳥のさえずりは一定のリズムで発生するものではない。時には単独で、時には複数が重なり合って、バラエティに富んだ静寂を切り裂く瞬間的な音が不定期に生み出される。不定期に静寂が切り裂かれるからこそ、静寂そのものも不定期に訪れる瞬間的な音として同様に扱える。鳥のさえずりがあたかも、その直後に訪れる瞬間的な静寂を1つの美しい音とするために存在しているかのように感じてしまう(もちろん鳥のさえずりは、それ自体も非常に美しいもので邪魔なものではない)。いまある静寂は次の瞬間には消え去っているかもしれない。そんな緊張感にある静寂は、儚くも愛おしくそして美しく思えてくる。静寂の美の発見は人類にとって意味のある発見である。ししおどしも、水を流す時に竹が生み出す音に美を見出したのではなく、意識的に切り裂いた後の静寂の方に美を見出したのだろう。
静寂は視覚的にはどう表現され得るか。それは余白ではないだろうか。この絵においてもそうである。描かれている部分は余白を意味のある1つの部分とするために存在している。部分としての連続性は途切れるが全体として調和している。

都市に住んでいると、瞬間的な静寂に立ち会うことはそう滅多にない。常時ノイズが都市を覆い尽くしている。次の瞬間には切り裂かれてしまうやもしれないという緊張感を持った静寂は都市では感じにくい。都市が作り出す音はそれはそれで非常に面白いのではあるが、静寂の美も忘れずにいたい。

富岡鉄斎「旧蝦夷風俗図」

作品の解説や紹介が目的ではありません。正しい/正しくないなどは置いておいて、自分の感じたこと、考えたこと、想像したことを自由に書きたいと思います

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出典:国立博物館所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collectionItems/view/12f08f3c06a62af80737925634848303/19589?lang=jpn)

今回は前回の続きで富岡鉄斎の「旧蝦夷風俗図」について見ていきたいと思います。
今回は右隻を中心に見て行きます。

まず目に飛び込んでくるのが火を囲み輪になって踊っている人々。アニメーションの一部であるかのような躍動感がある。最初はどの民族にもある宴の際の踊りを単に描いたものだろうと思っていたのだが、アイヌの事が気になりインターネットで検索したところ、この踊りはイオマンテリムセ(熊の霊送りの踊りという意味らしい)と呼ばれ、彼らアイヌ民族にとって最も神聖な儀式の1つであるそうだ(youtubeイオマンテと調べると踊りの動画を見ることができる)。イオマンテは狩で獲物の命を奪った際に、その霊を神々の世界に送り返す儀式だそうだ。彼らの生活と関わりの深い動物たちをカムイとして敬うため、儀式の対象となる動物は熊に限らず、狩の獲物となった動物全般に対しても行われるらしい。この”送り”を通して、人間と神は繋がっていたように思える。彼らには僕たちが見ることのできない何かが見えていたような気がする。彼らの儀式の際のカムイノミ(祈りの言葉)を見ると、彼らがいかに動物や自然に対して尊敬の念を持って接しているのかが理解できる。
アイヌ民族は熊を狩る際、親グマは殺して毛皮や肉を収穫し、子グマはそのまま村に連れて帰り、人間の子供を育てるのと同じように1,2年育て上げて、村をあげて盛大な熊送りをするらしい。左隻を見てみると、右下あたりの民家の隣に丸太で囲まれた熊の姿をみる事ができる。それがまさに彼らが育てている子グマなのだろう。そして右隻では主に、その熊送りの儀式の様子を見て取れる。

右隻の絵は非常に面白い。何が面白いかというと、異なる時間、場面が1つの画の中で展開されていることだ。画の中では、熊が3匹描かれているが、それは異なる3匹の熊ではなく、1匹の熊を巡って展開される3つのストーリーが描かれているということが推測できる。円を作り踊っている人たちが背景の山とかとは一切の関係がなく独立して描かれている理由がここで分かった。

ストーリーは右下の檻から出されるところから始まる。そして弓矢で射抜かれて、丸太で首をしめて殺す様子が中央下から左下に向かって描かれている。そして画面上部では饗宴の様子が描かれている。踊りと、食事の出来事の前後関係はわからない。同時進行の可能性もある。村全体で執り行われる儀式以外にも規模の大小を含めて、様々な形態をとって日常的に狩をした際は感謝を伝えていたみたいだ。現代において、形としてしか残っていない”いただきます”や、食事を平気で残したりしてしまうのも、食というものがあまりにも生命とかけ離れたものとなっているから来るものだと感じた。スーパーで売っている肉、魚、野菜など全て加工済みで、そこから生命の連続性を感じることは難しい。

わざわざ人間の子供と同じように子熊を育て、最後には神聖な儀式を行う事で霊を送り返してあげる。彼らの価値観の根底にあるものがこの儀式から見て取れるような気がする。弓矢で射抜く場面そこにいるのは男だけではなく、女もそして子供もいる。やはり共に過ごした時間というのは人間と熊という境界を超えて、心を繋げてくれる。しかもそれは純粋であればあるほど(特に子供たちみたいな)、熊に対する思い入れは強くなるだろう。そんなファミリーの一部である熊に対して、自然に死ぬのを待ったり、自然に返したりするのではなく、育て上げてきた自分たちの手で殺すのだ。中には泣く人もいれば、殺される場面を見るのを拒む人もいただろう。しかし、それが現実なのであり、あらゆる生命も生と死が連続的に繰り返される中の一端でしかないのである。そこに目を向けることは非常に苦しくてつらい。しかしそこに正面から向き合うことでしか、自分という存在がいかに他の生命に支えられているのかを実感し、人間という枠を超えてあらゆる自然、生命に対して感謝する心を育むことはできないのではないかと思う。そんな伝統を持ち、なお現在までその文化、伝統を途切れさすことなく続けているアイヌ民族は偉大であり、誇るべき文化、民族であると感じた。鉄斎も同じ気持ちになり手に筆を握ったのだろうと勝手ながらに思う。

【参考資料】

https://www.frpac.or.jp/manual/files/2005_12.pdf

富岡鉄斎「旧蝦夷風俗図」

作品の解説や紹介が目的ではありません。正しい/正しくないなどは置いておいて、自分の感じたこと、考えたこと、想像したことを自由に書きたいと思います

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出典:国立博物館所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collectionItems/view/12f08f3c06a62af80737925634848303/19589?lang=jpn)

今回は富岡鉄斎の「旧蝦夷風俗図」について見ていきたいと思います。
今回は左隻のみに絞って見て行きます。

鉄斎はなぜ旧蝦夷の生活に関心を集め、このような作品を描いたのだろうか。描かれたのは明治29年、西暦1896年の明治の社会やそこに生きる人々が忘れかけていた、失いつつあった鉄斎が頭に描いていた理想的な何かを蝦夷の人々の暮らしの中に見出したのであろう。猛烈な勢いで近代化が推し進められていた当時に、その影響を受けていない共同体の暮らしがそこにはあった。そんな彼らの暮らしについてみていきたい。

まず目に入るのは現代の家族とは違ったシステムによる共同体が形成されているということ。血縁関係の有無はもはや関係ない。各々が各々に役割を持ち、共同体としての全体のベクトルが統一されている。この共同体の行動は長期的な目標の達成のためのものではなく、今目の前にある解決しなければいけない事柄への集中である。人々が意気揚々と仕事に取り組んでいるように見えるのは、鉄斎の力量によるものだろうか。

賛の「七竅 未だ鑿たず」は荘子の句から来た。この句は「渾沌、七竅に死す」の説話から来ている。渾沌に人間と同じように、穴を開けたら渾沌が死んでしまったという話。七竅とは目、耳、鼻、口の7つの穴のことを指す。
渾沌は自然とみなすこともできるが、ここではもう少し広義的に巨大なシステムとしての自然とみると、その構造は複雑で常に変化し続けている、その名の通り混沌としたものである。七竅を開けるとは、その秩序のない渾沌に人間が秩序を与えんとしたことであり、そのことで渾沌が死んでしまったのである。渾沌は巨大で複雑であるが、同時に非常に繊細な面も持ち合わせている。人間が自然に対して理解していると思っている部分はほんの一部であり、しかもそれは人間に都合の良い解釈に過ぎない。

鉄斎は彼らの生活のどこから「七竅 未だ鑿たず」を感じたのだろうか。
彼らの自然との関わり方について見てみると、木々から家を立てようとしている人もいれば、川では何か洗っているのか、絹を水に流しているのか作業をしている人もいる。女性達は織物をしており、その側では子供達が遊んでいる。一見、木を切り倒して家を建てているわけだから、自然に悪影響を及ぼしていると思われるかもしれないが、そうではない。人間が生きていくために自然を利用することが渾沌に穴を開けることではない。渾沌に穴を開けるとは、どれだけ木を切り倒すかとか言った程度や量の問題ではなく(つまり自然への介入が多ければ悪で、少なければ善であると言うことではない)、当事者の自然に対する見方の問題である。
確かにこの絵の中の人々の行動は、彼らが生きていくためのものであり、彼らのその姿からは自然に対して秩序をもって支配するという気概は全く感じられない。生きていくために必要なのであり、それ以上でもそれ以下でもない。彼らの生活と自然とを切り離すことは決してでい訳で、彼らは無自覚的にもその事実を理解し、自然をただそこに存在するものとして見ているように思えてくる。

人類の自然との関わり方は永遠の課題でもある。もちろんサイエンスが自然を理解しようと築き上げてきたものは非常に価値あるものだが、それと自然とどう共存していくかというのは全くの別問題であるということは少なくとも理解しておく必要がある。