のんびり日記

のんびり生きましょう

雪舟 「四季花鳥図屏風」

作品の解説や紹介が目的ではありません。正しい/正しくないなどは置いておいて、自分の感じたこと、考えたこと、想像したことを自由に書きたいと思います。

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参照: Birds and Flowers of the Four Seasons - Sesshū Tōyo — Google Arts & Culture

今回は雪舟の「四季花鳥図屏風」です。以前も同じタイトルの作品をブログに載せたのですが、今回は同じタイトルでも違う絵です。

画面右に大きな木の幹が見える。画面中央から左にかけ上から枝が伸びている。そのことによって絵が屏風の枠から飛び出して、鑑賞者の想像の中に画面上に大きな木が描かれる。屏風の外側まで描いているとも言えるし、また鑑賞者が想像することによって完成するとも言える。全てを描くのではなく、あえて鑑賞者に想像力の余白を残している。仕掛けは作るが、「最後はどうぞご自由にあなたの思うように楽しんでください」と言われているような気さえする。
他にもある。画面左側に奥へと続く小道があるのが分かる。しかし小道の先は画面上では余白として描かれている。そう何も描かれていないのではない。”余白”が描かれているのだ。もっと言うと、余白を描かなければいけない理由があった。それは鑑賞者がこの絵にたどり着いた時に中央の鶴と出会うようにするために。中央に仁王立ちする鶴は小道の先(余白の世界)からこの絵にたどり着いたあなた(鑑賞者)を迎えているのかもしれない。必然的にあたな(鑑賞者)はこの絵で鶴と対峙する仕組みになっている。何度も言うが余白は描くことがなかったから余白となっているのではなく、理由があって余白が描かれているのだ。

画面またはキャンバスの中で全てが完結している作品は一見完成度の高い作品にも見えるが、どこか息苦しさを感じる。僕にとって鑑賞者が自由に動ける余白のない作品は優れた芸術作品であるとは言えない。いかに見せないことで見せるか。作品として存在する、もしくは表れているもの(現実)とその背後に作られる目に見えない世界(虚構)が一つになった時、それは優れた芸術作品として人々の心を掴み歴史に残っていくのかもしれない。
総じてこの作品は描かれていないけど、描かれている。いや、僕自身が与えられた余白に世界を描くことで、画面(キャンバス)という枠組みを超え、この作品(雪舟の見た世界)の本当の姿が表れてくるのかもしれない。