のんびり日記

のんびり生きましょう

白隠慧鶴「達磨像」

作品の解説や紹介が目的ではありません。正しい/正しくないなどは置いておいて、自分の感じたこと、考えたこと、想像したことを自由に書きたいと思います

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白隠慧鶴「達磨像」

今日は白隠慧鶴の達磨像について見ていきたいと思います。

画面の中心に右上から右下にかけて力強くて太い線が描かれている。生き生きとした筆の流れから作者が体全体を使って線を描いている姿が頭によぎる。今で言うアクティブペインティングの先駆けのようなものだとも言える。

見てわかる通り、写実とはかけ離れたものがあり、白隠が追求した表現が対象の写実性ではなく、彼自身の意識の内面に存在する精神性のようなものだったのではないだろうか。白隠は禅僧であり、絵を描く専門家ではなかったが禅僧が絵を描く禅画などは日本の美術の歴史の一部としてしっかりと存在している。彼らにとって写実的に対象を捉えるよりも、そこから溢れ出る生命力、精神力の方が大切だったに違いない。禅についてもっと色々学びたいと思う。

上に描かれている書にも注目したい。恥ずかしながら読むことはできない(要勉強)。しかし、書の筆法は絵画にそのまま用いられている。顔に用いられている線なんか特にわかりやすいけど、最初に述べた右上から左下にかけての太い線も力強さや込められたものの違いはあれど、書の延長であることはわかる。

まとまっていないけど今日はここら辺で。

Henry Moore 「Reclining figure」

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今回はHenry Mooreという作家のReclining figureという作品を見てみたいと思います。

体が溶け出しているように思えた。足と腕が境界線を持って分かれているのではなく、曖昧になっている。鑑賞者が作品を見て人の体であると認識できる範囲内で、どれだけ体から離れて全く別のオブジェクトとして表現できるかへの挑戦心みたいなものが感じられる。僕は何を持ってこれを人間の体と決めつけたのだろうか。全く別のグニュグニュした物だと思えば、それも間違いではない。僕がこの作品を人間だと捉えた瞬間に何か人間に対する概念が僕自身が気づいていないだけで、拡張されているのかもしれない。

3つの穴に注目したい。足の間、脇、そして乳首の3点に穴があり、乳首だけが貫通していないから黒い。乳首を無視すれば、2つの穴を通して向こう側から誰かがこちらを覗いているようにも見えなくはない。
乳首を除く2つの穴は、時間が進めば小さくなって行くように見える。なぜなら体が今以上に溶けて連結部分が広がっていく光景が目に見えるから。その一方で乳首の穴は時間の経過とともに大きくなっていきそうに思える。他の2つの穴は体の構造的に偶然できたとも捉えられるけど、乳首の穴に関しては何か自発的な意思を感じる。なぜなら乳首は本来穴とは逆で、窪みがある所ではなく突起がある所だからだ。生殖機能の損失で表しているのだろうか。ここでもまた、どこまでもしくは何を基準に人間を認識しているのか問われているような気がする。

マルセル・デュシャンと日本美術

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マルセル・デュシャンと日本美術展

先日、東京国立博物館で開催されていた「マルセル・デュシャンと日本美術展」に行ってきたので、そこで感じたこと、思ったことについて書きたいなと思います。

僕の認識ではデュシャンは20世紀を代表する作家の一人であり、現代美術の文脈でも外すことのできない人物。
色々思うこともあったけど、やっぱり便器にはゾクゾクした。一点物の作品に対するアンチテーゼとしてどこにでもある工業製品とかよく言われている。けど僕はそれ以上に、本来の機能が消滅している状態(便の受け皿としての機能は存在しない)のものが芸術作品として昇華され美術館で展示されていて、作品はガラス張りのケースで管理され、そこに人が群がり写真を撮っているという光景が僕の目には異様に映った。同時にいかにデュシャンが与えたインパクトが大きいものかを身に染みて感じることができた。
まあ、普通に思っていた以上に普通の便器だったからびっくりしたのもあった。
やっぱり現代美術は時代背景や文脈を踏まえた上で見ないと理解に苦しむ部分が多いのも事実だから素直に勉強します。

 

また、展覧会の内容とは直接関係ないけど、やっぱり日本には芸術鑑賞をする文化はないんだなーと感じた。もちろん、自分は違うと言うつもりは毛頭ないし、自分に優れた鑑賞眼があるとも思っていない。だけど、みんな作品自体をみる時間よりも作品の隣にある説明書きを見るばかりだし、写真撮ってフォルダーに収めることが目的になっている人もたくさんいたし、何だかなーと思った。まあ他人の批判する時間があれば手を動かせって話なので、自分でできることを探したいと思います。

雪舟 「秋冬山水図」

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参照:(東京国立博物館)

雪舟の「秋冬山水図」という絵について見ていきたいと思います。

雪舟の代表作の一つであると同時に非常に理解するのが難しい。本当にこの絵を理解しようと思うと長い時間を要するだろうから少しずつ見ていくことにする。
以前紹介した別の雪舟の絵でもそうだったが、今回の風景がでもやはり家や建物、人間が自然の中に描かれている。人間と自然に境界を作り、観賞もしくは観察の対象としての自然ではなく、明確な境界線がない上に、相反する関係としてではなく、人間の営みそのものが自然の一部であり、共存関係を結んでいる姿が描かれている。それは西洋において風景画が描かれる際のロジックとは大きく異なるように思われる。
画面中央下側に階段を歩いている人が描かれている。また画面奥には家らしき建築物が見える。鑑賞者は自然と、この人があの建物に向かって歩いてきたんだ、もしくはそこを目指して今歩いているんだろうなと感じることができる。だから過去、現在、未来の3つの時間軸が鑑賞者の頭を流れることになる。

秋冬両方の絵に言えることだが、黒い点が目に留まる。この二作品以外にも、黒のドットはよく描かれているが、今まで考えてこなかったのでここで考えてみる。何かを抽象的に意味している記号として役割を果たしているのだろうと推測できる。
まずドットが打たれている場所を見てみる。山肌、岩、道脇、木の根元、木の表皮など、どちらかと言うと、ゴツゴツザラザラしたような場所にこのドットが打たれている。対して家や人間に対してドットが用いられることはほぼない。このドットを考えるのは深入りしすぎてしまいそうだから、また別の機会を作ってそこで考えてみようと思う。

では本題の冬の方の絵の黒い線について考えてみる。
この絵の構図自体は珍しいものではなく、以前本ブログで取り扱った四季山水図と似たようなところがある。異なる点は、山を細かく描写しているのではなく表面の質感がわかるように粗く上下左右に筆を滑らしているのがわかる程度で、ほとんどが余白となって背景に消えていく点である。
正直な所、この絵は全く訳が分からない。何があってこういった描き方になったのだろうか・・・
季節は冬。画面奥の山とかは雪に覆われているのがすぐに分かる。余白となって描画されていない山の部分も雪による影響だとも言えなくもない。
やはり、表面の一部を描いているのは、山として認識できる最低限に留めておいて、後は余白を描きたかったのだろう。
いや、もはや異次元の別世界が乱入してきたのではないかとさえ感じようになってきた。

何一つわかったことは無いけど、しぶとく研究を続けていこうと思います。
今回はとりとめもない感じですが、ここらで終わりにします。

 

雪舟 「四季花鳥図屏風」

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参照: Birds and Flowers of the Four Seasons - Sesshū Tōyo — Google Arts & Culture

今回は雪舟の「四季花鳥図屏風」です。以前も同じタイトルの作品をブログに載せたのですが、今回は同じタイトルでも違う絵です。

画面右に大きな木の幹が見える。画面中央から左にかけ上から枝が伸びている。そのことによって絵が屏風の枠から飛び出して、鑑賞者の想像の中に画面上に大きな木が描かれる。屏風の外側まで描いているとも言えるし、また鑑賞者が想像することによって完成するとも言える。全てを描くのではなく、あえて鑑賞者に想像力の余白を残している。仕掛けは作るが、「最後はどうぞご自由にあなたの思うように楽しんでください」と言われているような気さえする。
他にもある。画面左側に奥へと続く小道があるのが分かる。しかし小道の先は画面上では余白として描かれている。そう何も描かれていないのではない。”余白”が描かれているのだ。もっと言うと、余白を描かなければいけない理由があった。それは鑑賞者がこの絵にたどり着いた時に中央の鶴と出会うようにするために。中央に仁王立ちする鶴は小道の先(余白の世界)からこの絵にたどり着いたあなた(鑑賞者)を迎えているのかもしれない。必然的にあたな(鑑賞者)はこの絵で鶴と対峙する仕組みになっている。何度も言うが余白は描くことがなかったから余白となっているのではなく、理由があって余白が描かれているのだ。

画面またはキャンバスの中で全てが完結している作品は一見完成度の高い作品にも見えるが、どこか息苦しさを感じる。僕にとって鑑賞者が自由に動ける余白のない作品は優れた芸術作品であるとは言えない。いかに見せないことで見せるか。作品として存在する、もしくは表れているもの(現実)とその背後に作られる目に見えない世界(虚構)が一つになった時、それは優れた芸術作品として人々の心を掴み歴史に残っていくのかもしれない。
総じてこの作品は描かれていないけど、描かれている。いや、僕自身が与えられた余白に世界を描くことで、画面(キャンバス)という枠組みを超え、この作品(雪舟の見た世界)の本当の姿が表れてくるのかもしれない。

 

明兆 「達磨図」

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明兆は室町時代に日本での水墨画の道を切り開いた人である。

この達磨の衣服における太い線見覚えないだろうか?そう、雪舟の慧可断臂図で描かれている達磨の衣服の線と似ている。実際、明兆がいた東福寺雪舟も滞在していた時期があったみたいだから、単なる偶然ではないだろう。

そもそも達磨とは一体誰なのか。Wikipediaによると、

菩提達磨は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。

らしい。この絵で 達磨がいるのはどこだろうか。木や葉のツタのようなものも見えるから、自然の中であろう。靴を脱いで座禅を組んでいるのがわかる。周りの雲は彼の存在感を際立たせるための一種の演出だろう。雲の輪郭ではなく、ほんの少し内側に線を引いているのが特徴的だ。

力強い眼差しが鑑賞者と出会う。全てを見抜かれてしまっているような錯覚に陥る。

やっぱりこの絵で一番面白いのは衣服で用いられている線だろう。服や木における線を見てもわかる通り、基本的には彼の線は太くて力強い。しかし達磨の眉毛や髭を見ると、いかに彼が繊細な線を引いているかがわかる。ということは何か意図があって、太い線を描いていると言える。では、なぜだろうか。
その前に少し。僧侶が身に羽織っている布のことを袈裟と呼ぶらしい。私自身、小中学校時代に仏教国タイに2年半ほど住んでいてたことがあり、その時にこの達磨と同じようなオレンジ色の袈裟を身に付いている僧侶をたくさん見た記憶がある。
話を戻して、もう一度衣服に描かれた線について考えてみる。当時は今以上に宗教が力を持っていたことだろう。上記のwikiの説明からもわかる通り達磨は僧侶の中でも格が違う。彼の威圧感や存在感の大きさというのは、目を見ればわかる。鑑賞者に向けられた鋭い眼光は全てがお見通しであるかのよう訴えかけてくる。もちろん、明兆が生きていた時代には達磨はいないわけで、神話の人物を描いているに過ぎないのだろうが、達磨の目力、何にも動じないと言わんばかりの存在感、そして雲による演出など、明兆がいかに達磨の偉大さを表現するかに凝っているのがわかるだろう。衣服に用いられた線もその一つではないだろうか。基本的に線が描かれているのは、服のシワの部分だろうから、必然的に線は達磨の体に沿って形を変えていく。それがまた、彼の着ている袈裟を袈裟以上のもの、ある種のオーラのようなものに飛翔させているように思えてくる。
見れば見るほどに、達磨の周りの空間自体が彼の存在に影響を受けているように見えてくる。飲み込んでくる自然に対して、飲み込まれるでもなく跳ね返すでもなく、何か絶妙なバランス感覚を持って自然そのものに同化してしまっている気さえしてくる。衣服における線も達磨とその他自然を分ける境界線としての線ではなく、むしろ自然と達磨を結びつける役割を担っているのであり、達磨は自然となり自然は達磨となり得るには線がこのように描かれたのは必然だったのかもしれない。

ではでは。

Angry Birds

作品の解説や紹介が目的ではありません。正しい/正しくないなどは置いておいて、自分の感じたこと、考えたこと、想像したことを自由に書きたいと思います。

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今日は、世界的に有名なアプリの一つであるAngry Birdsについて考えたいと思います。Angry Birdsはフィンランドで生まれたアプリです。2009年冬に初リリースだが、iPhone初代が出たのが2007年1月なので、アプリ界の重鎮と言ってもいいでしょう。

目次

  • 何をするゲームなのか?
  • UI / UXはどんな感じ?
  • 制作に活かせる点は?

何をするゲームなのか?

基本的には様々な種類のBirdsをフィールドに設置されている敵に向けて指スライドで放つだけです。手持ちのBirdがなくなるまでに、全ての敵をフィールドから除外できたらクリアっていうゲームです。上で述べた通り、Angry Birdsはスマホ初代のゲームなので、当時はまだスマホゲームの可能性を探っていた時だったと思われます。画面タッチインタラクションは今までの携帯ゲームや他のゲーム機にはない新たな領域だった訳で、その中でBirdsを指スライドで飛ばすという比較的にシンプルなゲームが生まれたのだと思います。

UI / UXはどんな感じ?

<UI>

  1. 通知

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    ユーザーに対するお知らせがある場合(例えば報酬の受け取りや、新しいゲームコースが利用可能になったとか)は、ビックリマークを各アイコンに表示して、ユーザーが一目で気付けるようになっています。
  2. マップ

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    マップ画面では、現ステージ内で今自分がどこにいるのかが一目でわかるようになっています。ホームシーンからゲームプレイに至るまでの過程をいかにシンプルかつ分かりやすくできるかは一つの大事な指標ですね。また、指スライドでマップ上を自由に動き回れるので、今まで自分が進んで来た道のりを振り返ることも、あとどれくらいでステージをクリアできるかを見ることもできます。ボス戦が5回に1回くらいの割合であるのですが、僕的にはボス戦はゲームを終わる一つの目安となっていたので、それがすぐ見て分かるようになっているのは良かったです。

<UX>

  1. 「可愛いキャラクターを動かして気持ちがいい」

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    キャラクターの可愛さもこのゲームが人気の大きな理由の一つですね。キャラクターを飛ばすだけで楽しめるっていうのは良いですね。個人的には、それぞれのキャラクターには固有の能力があり、「この状況ではどのキャラクターの能力が一番良いか」を考えるだけでゲームを楽しめます。ワンピースみたいに、みんなに専門分野があり、個々では偏りがあったとしてもうまく能力を補間し合っています。
  2. 「ちょっとした隙間時間に遊べて楽しい」
    スマホゲームの初期時代に作られたこともあり、操作性がかなりシンプルですよね。指のワンスライドで遊べるのはすごい。なんたって東京の朝の満員電車の中でも遊べるんですよ(したことはないですが)。一回のゲームにかかる時間もそれ程長くないですし、ほんのちょっとした隙間時間(待ち合わせの間、昼ご飯中、勉強の合間の息抜きなど)に遊べる手軽さはコアのゲーマーを除けば大部分のスマホユーザーの需要を満たしていますよね。

制作に活かせる点は?

やっぱりグローバルに人気を得ているものっていうのは本質を突いている気がします。キャラクターを操作するだけで快感を得られるのはマリオみたいな感じですよね。デザイン面も言語は極力無くして、グラフィックと言った非言語領域でのコミュニケーションがメインとなっています。
ゲームを作るどうこう以前に、ローカルの一部に支持されるようなゲームを作ろうとするのではなく、(もちろん万人ウケするものや批判のないものを作るという意味ではなく)世界にとって意味あるものを目指すという姿勢は絶対必要ですね。そうすることでしか本質的なものは見えてこない気がします。