のんびり日記

のんびり生きましょう

与謝蕪村 「若竹図」

作品の解説や紹介が目的ではありません。正しい/正しくないなどは置いておいて、自分の感じたこと、考えたこと、想像したことを自由に書きたいと思います。

f:id:jundesuyo:20190111093832j:plain

与謝蕪村「若竹図」(参照:http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/42841

今日は与謝蕪村俳画を見たいと思います。
「若竹や はしもとの遊女 ありやなし」
"はしもと"というのは地名。"ありやなし"は"ありやなしやと"の省略で、いるのだろうか、いないのだろうか、無事でいるのだろうかというもの思いを表す言葉。
若竹を見て、ふとはしもとの遊女が今は何をしているだろうか、無事にしているだろうかと思いを馳せている情景が頭に浮かぶ。
この俳句に流れる時間は”いま”である。はしもとの遊女と出会ったのは過去の出来事だけど、”ありやなし”と、その彼女へ思いを馳せているのは現在の若竹を見た瞬間である。
風に吹き揺られる若竹が作る音や、若竹の間からまばらに見える奥の景色から(おそらくはしもとにも若竹があったのだろう)、過去に出会った女性が連想され、ふと思いを馳せる。そんな瞬間は現代を生きる僕たちにもないだろうか。普段は忘れているが、あるきっかけでふと過去に出会った、恋した人を思い出し、今は何をしているのだろうかと思いを馳せる。おそらく蕪村はこの詩を読んだ1時間後くらいにはまたはしもとの遊女のことは忘れているだろう。若竹が目の前にいたあの瞬間に馳せた彼女への思いは、おそらく計り知れないほどの深さに達していただろうが、瞬間の意味する程度の差はあれど、次のステップわざわざ手紙を送ったり、はしもとに行って探したりはおそらくしないだろう。現代を生きる僕たちはどうだろうか。インターネットの恩恵で、メールやラインを使えば瞬時に人と繋がれる。でも、その思いを馳せた瞬間にスマホを取り出し、連絡を取れたらもしかしたら再会が叶うかもしれないが、多くの人は家帰ってから連絡してみよだのなんとか言っているうちに、そのこと自体忘れたり、覚えていたとしても「ま、やっぱりいっか」と連絡をとらないように思える。
そんなふとしたことで連想されるある瞬間のもの思ひを蕪村はこの17音節の極めて短い俳句の題材として選んだ。普段僕たちがなんでもなかったと忘れてしまうようなある瞬間の当人の心理状態の変化に蕪村は注目し、それを芸術へと昇華させた。

以上が俳句についてたが、俳画の方はどうだろうか。
書を見てみると筆法が下の若竹の画と同じことに気がつく。書の画への侵入と考えることができる。
細長い線と、自由に筆を走らせたことが想起される葉によって若竹が描かれ、その間からかすかに顔を覗かせる家屋を見て取れる。その家屋にはおそらくはしもの遊女がいるであろう。
若竹と家屋で使われている墨が異なることに濃淡を見れば気づく。上でも述べたように、はしもとの遊女との思い出は過去のものであるが、この俳句に流れる時間はいま現在の若竹を見ている瞬間である。つまり、昔出会った遊女のことをふと思い出し、彼女はいま何をしているだろうかと思いを馳せているが、その瞬間のいまと時間の前後の関係性は皆無であると思える。何もないところから若竹を見てふと彼女を思い出し、瞬間の程度の差はあれど、その瞬間が終わればその彼女は蕪村の頭からは消えている。その瞬間にのみ存在した蕪村の心理的変化の様子が濃淡の差に現れたのではないか。その瞬間が終わるとさっきまで見えていた家屋は消え、若竹だけがそこに残る。その時には蕪村の頭に遊女は存在していないだろう。