のんびり日記

のんびり生きましょう

この世界の片隅に

今更ですが、この前「この世界の片隅に」を見たので、それについて思ったこととか描きたいなと思います。

 

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あまり詳しいことは知らないが、元々はこうの史代さんの漫画があって、それを元に片渕須直監督がクラウドファンディングでお金を集めて、アニメ映画化したらしい。

〜全体を通して〜
戦争に関連する漫画でいうと「裸足のゲン」は読んだことがあり、そっちは爆心地を中心に話が展開され、主人公のゲンも被爆者として、主に戦争の中でも原爆に焦点が置かれていたが、この「この世界の片隅に」の舞台は広島県内でも呉市で、映画の中でも原爆の投下のシーンはあったものの、それがメインではないことはわかる。では、どういったことがメインで描かれていただろうか。それは、庶民の生活に戦争がどういった影響を与え、そこに住む人々の日常をどう変えていったかという視点での戦争についてだと思う。例えば、空襲のシーンは非常に多く描かれている。その度に人々が防空壕に避難して、疲弊していく姿が頭の中に残っている。他にも、戦争が進むにつれて、配給が減ったり、食料の値段が高くなったりと。総じて”普通の人たち”の生活にフォーカスしている。
主人公のすずは当時のそんな”普通の人”の中の一人である。20歳近くになり、お見合いで結婚が決まり、突然生活の拠点を移し、見ず知らずの人たちとの共同生活が始まる。今の時代では考えられないことだろうが、当時にしてみれば特別なことではなかっただろう。彼女にはぼんやりとしていてとぼけた一面もあるが、それがまた彼女を良い意味で戦争に犯されることなくピュアなままに普通にしていたのかもしれない。
海兵の哲がすずの家に訪れた際、すずに対して「お前は普通やのう」と何度も言っていた。海兵として戦場へ出向いていた彼の日常では、人が殺し殺されるのが当たり前であり、そんな中を生きている彼にとって普通でいることがどれほど難しいことであっただろうか。そう、戦争は生活だけでなく、人々の中にまで侵食する。それに負けずに普通でいたすずの姿が彼にとっては美しかったのではないか。

 

〜居場所と家〜
すず、周作をはじめ彼らの生活の中心地はどこか。それは家だろう。映画の中に、家の描写が度々出て来た。家が全焼し、土地を離れる人。嫁姑問題に嫌気がさして帰って来た周作の姉の径子。家が燃えそうになった時に必死になって消そうとするすずの姿。彼ら一家は一体何で繋がっていたのだろうか。すずを除く他の人たちは血縁関係にあるから、すずはずっと家族の中ではお客様のような気分だったのであろう。すずと周作はキスはするがセックスはしていない。していたかもしれないが、少なくとも彼らの間に子供はできていない。できていてもおかしくないのにだ。だから言ってしまえば、すずはあの家にいる理由はない。だけど、残っている。理由は周作のことを好きになってしまったからだろう。すずにとって呉の家にいるのはさほど居心地の良いものではなかったはずだ。色んな制約もあり、大好きな絵もほとんど描けないし。特に晴美を失ってからはなおさら居心地は悪かっただろう。一度は広島に帰ると決めたものの最終的には、径子の一言で居残ることを決めた。「この世界の片隅に私を見つけてくれてありがとう」の一言は、この一連のことを含めて出て来たものだろう。自分の居場所を見失っていたすずにとっての唯一居場所を指し示し続けてくれた存在が周作であった。

 

〜疑問〜
少し話はそれるが、最後のシーンに疑問が残った。なぜすずと周作の自分たちの子供ではなく、親を失いさまよっていた少女が選ばれたのだろうか。最後のシーンが、出産で、家族に新たな命が生まれましたでも、話の終わり方としては悪くはないだろう。しかしそうではなく、母が被曝死したが故に、飢餓状態にあった少女だった。あの少女もまた、居場所を失った一人として、すずと周作に出会った。そう、ようやく居場所の見つかったすずのところに少女が来たのだ。リンが「そうそう居場所はなくならいわよ」的なことを言っていたのを思い出した。戦争の惨禍で居場所を失ったあの少女とすずが出会った巡り合わせは運命的なものだろう。

 

〜最後に〜
この映画の中で一番心に残っているセリフがある。

「みんなで笑って暮らせればいいのにね」

場面は、すずが軍艦の絵を描いていたら憲兵に捕まって注意されるところらへん。すずがどういった人間かを知らずに真面目に注意していた憲兵がおかしくて家族みんなで笑っているところ。「平和」という事について語るとき人は何か大きな存在で、遠くにあるように考えがち。でも本当は、当たり前の日常を当たり前に過ごせることが何にも変える事のできない平和なのだとこの映画は伝えている。自分の好きな人達とつまらない事で笑って暮らせられること程に平和で幸せなことはないのではないだろうか。戦争がそんな当たり前の普通を人々から奪いさった後、巨大な力によって多くの大切なものを奪われたにも関わらず、最後に「この先私は笑顔の入れ物なんです」と誓ったすずの姿はたくましく、そして力強い。

幸せになるためにはとかを語る変態たちが人々の幸福度を下げているのは間違いない。幸せや平和は獲得するものでもなければ、お金で買うものでもなければ、自分以外の誰かがくれるものでもない。今この瞬間を当たり前に生きていられるならば、その時点で幸せで平和なのだ。そう、みんな死ぬ時に思い出すのは何でもない当たり前に過ごしていた日常なんだろう。

長くなってしまい疲れました。ではでは。